私の弁護士41年間を振り返る

1 はじめに
私は,1980(昭和55)年に大阪で弁護士となった。今年で早くも,弁護士41年目となる。その間,いろいろな事件活動に参加してきた。その中心は労働事件(労働者側)と税金事件だった。
私がこのような事件活動を書き記したいと考えたのは,2020年に大先輩の石川元也弁護士と山下潔弁護士が,共に88歳の御高齢でありながら,現役の弁護士として実に数多くの実績を残されていることを知ったからだ。
石川弁護士は,実務家として困難な事件でも常に先頭に立ち,切れ味鋭く事件の本質に迫り,問題解決に導いている。特に刑事事件においては合計で32件もの無罪判決を勝ち取っているというから驚きだ(注①)。
他方,山下弁護士は,豊かな感性に導かれた行動力によって,困難な事件を解決に導いている。例えば,水俣病の事件では現場検証に来た裁判官の眼前で,いきなり鶴嘴を振り上げて穴を掘り,地中に隠されていた汚染物質の水銀を探り当てて,解決に迫るなど,驚くべき行動力が発揮されている(注②)。
それに対し私は,石川弁護士のように「頭が良く切れ味鋭い」という訳でもなく,さりとて山下弁護士のように「人並み外れた感性と行動力をもっている」訳でもない。そんな私の持ち味と言えば,「何事にも辛抱強く,粘り抜くこと」だろう。そして,その粘りでこれまで一定の実績を残してきたことがある。
そこで,41年に及ぶ弁護士としての活動を振り返りつつ,どのように粘り強く頑張ってきたかを御披露してみようと思う。

2 最初の10年間(関西合同法律事務所時代)
私は司法修習生の時,岡山で弁護士をするつもりで,妻京子の実家のある岡山で,実務修習をしていた。そこへ,大阪の関西合同法律事務所から弁護士二人がやってきて,「関戸君,君は大阪へ来ないと後悔するよ」と言って,事務所に誘われた。大阪からわざわざ弁護士が勧誘に来た理由は,東京での前期修習の時,青年法律家協会(青法協)の企画に一緒に参加していた同期の修習生(彼は大阪で実務修習をしていた)が,「岡山に面白い修習生が一人いる」と大阪の関西合同法律事務所の弁護士に私を紹介したためらしい。別段,特に青法協で目立った活動をしていた訳でもないが,学生時代に,当時の自由法曹団団長の上田誠吉弁護士の書いた「国家の暴力と人民の権利」を読み,その中で論じられていた共謀共同正犯理論が,共犯者の自白を利用してフレームアップの理論的な支柱として使われていたことを指摘したり,白表紙による起案をベースとした司法研修所の机上教育を,アメリカのリアリズム法学派の考え方をベースに現実の生きた裁判との違いを指摘し,その問題点を語っていたことから,同期の修習生に「面白い存在だ」との印象を与えたようだった。
私は即座に「後悔するのは嫌だから大阪へ行きます」と返答し,岡山で就職が決まりかけていた弁護士事務所に断りを入れることとした。それは,当時岡山地裁で争われていた岡山スモン事件の弁論で,大阪から被害者側の応援弁論のために参加した弁護士達の迫力ある弁論に圧倒された体験があったからだ。
そのため,大阪では労働事件,公害事件などの著名な事件を経験してみたいと思い,「3年間は大阪で頑張ってみます」と伝えて関西合同に入所することを決めた。しかし,その後40年以上,そのまま大阪で弁護士として活動し続けることなど思いも寄らぬことだった。
当時関西合同は,弁護士10数名を擁する関西で一番大きな共同事務所で,社会的弱者,労働者の擁護等を目的とし民主的な諸課題を取り扱う事務所だった。弁護士は全てパートナーとして参画し,完全給与制だった。完全給与制は事務所全員の一体感を維持するには好都合だが,個々の弁護士にとっては逆に精神的にはかなりきついこともあった。
事務所内には石川弁護士を始めとして労働事件や弾圧事件に習熟した弁護士が複数おり,労働事件に興味を持っていた私にとって大変勉強になる事務所だった。私は主として今はなき河村武信弁護士や西本徹弁護士と一緒に労働事件を担当することによって,その真髄とも言うべき事件のポイントを看取する方策の指導を受けている。
私は活動の中心を,労働事件を取扱う民主法律協会(民法協)の活動に軸足を置くこととした。事務所では,民法協の外に自由法曹団,青法協等の法律家団体のどれかを自分の弁護士活動の中心に据えることが要請されており,各々の弁護士は,毎年2回の事務所総会でその活動状況を報告して各々の活動内容を皆で共有することにしていた。この時期私は民法協の事務局次長をも経験している。
その当時の私の事件数は,一般事件を常時50件以上は持ち,それ以外に労働事件や税金事件・公害事件等の特殊事件を数件ずつ担当していた(私より10年以上の先輩弁護士は一般事件の手持件数が100件を超えていたというから驚きだ)。でも注入するエネルギー量や時間は,後者の特殊事件群が圧倒的に多く,優に全エネルギーの半分を超えていただろう。大体夜の7時以降が特殊事件の打合せ時間となっていた。
それでも私が関西合同に所属していた10年間で,おそらく一般の個人事務所に所属する同期の弁護士の2倍以上の事件を処理したと思う。独立する際には「渉外事件と特許事件以外は担当したことのない事件はない」という状況となっていた。つまり,大抵の事件は,最初の相談の段階で解決の道筋を立てられるようになっていたのだ。これは私にとって大きな財産となったことは言うまでもない。そのかわり,夜9時前に帰宅の途につけることはほとんどない状況だった。
この時期,思い出に残る労働事件では,労働判例集に必ず登載されている東亜ペイント配転解雇事件がある。この事件は,仮処分,一審,二審で労働者が勝訴したものの,会社側から上告され,最高裁から弁論を開く旨の通知があった。
私は,初めて最高裁で弁論を行ったが,出された労働者に厳しい最高裁1986(昭和61)年7月14日判決(その内容は配転の基準を示して,「単身赴任は労働者が通常甘受すべき」とする破棄差戻の判決だった)を批判する小論文を労働法律旬報誌に投稿し掲載されるに至った(注③)。幸いにして,その後,この事件は大阪高裁での差し戻審で,解雇を撤回させ,18年間の闘いを経て職場復帰を果たす全面勝利の和解で解決するに至っている。
さらに税金裁判では課税庁による乱暴な推計課税を打ち破る判決を,立て続けに2件連続で勝ち取ることができ,国は控訴もできずに終わらせている。このことがきっかけで,その後の私の税金弁護士としての方向を基礎付けることとなった。
私の関西合同時代は,労働事件と税金事件の活動を中心にしたもので,この時期に共同事務所の弁護士としての力量をたたき込まれた。関西合同時代の10年間で,私の弁護士の基礎が出来上がったと言っても過言ではない。

3 弁護士10年目から20年目頃の状況
私は個人的事情で10年間所属した関西合同法律事務所を退所してから,大阪府吹田市江坂の地に自分の事務所を持つに至った。当時の大阪ではまだめずらしい郊外での地域密着型の事務所だった。大阪市内の裁判所界隈に,大半の法律事務所が林立している中で,大阪に全く地縁血縁もない私は,比較的自宅に近い御堂筋線沿線の江坂の地に事務所を開設することにした。
当時江坂にはまだ法律事務所は1つもなく,吹田市,豊中市を中心に淀川以北の大阪北部のエリアから,新規依頼者が多く訪れた。その割合は,全事件の7,8割位はあったと思う。私の思惑は当たり,事務所の経営は比較的順調に推移することとなった。やがて自宅を北千里から江坂に移し,職住接近を計った。これにより自宅から事務所まで歩いて通える距離となったことは,肉体的のみならず精神的にも非常に大きいメリットであった。
しかし,関西合同を退所してからは,労働事件は解決に伴い徐々に減り,国鉄の分割・民営化に伴いJR西日本に採用拒否された国労組合員の事件と,組合活動を嫌って解雇された労働者の処分を争う日新化学事件以外はなくなり,必然的に税金事件が中心となっていった。それは,関西合同時代当時の同僚の弁護士が,何故か税金事件を嫌がっていたことにも起因する。私は税金事件も労働事件並に頑張ろうと決めていたため,税金事件は独立後も間断なく私のところへの依頼が続いたからだった。
その頃,「立ち上がれ怒りの納税者たち」(注④)という担当した税金裁判を題材にして,小規模事業者を対象とした税務調査の対応の仕方を伝授した一般啓蒙書を出版し,北は北海道苫小牧から,南は九州熊本まで全国各地を講演して回った。税金事件の依頼をしてきた事業者団体からは,一層の信頼を得ることとなった。
丁度その時期に,大阪国税局幹部との癒着を問題にした同和団体幹部Oのニセ税理士事件をきっかけに「税務署オンブズマン」(その後名称は,「税金オンブズマン」に改訂された)が結成された。これは税務行政に不満を持つ弁護士・税理士や事業者・消費者等を中心に結成された市民組織で,税務行政に苦しめられた納税者を支援することなどを目的としていた。この時に税務署オンブズマンが編集して出版した「税務署をマルサせよ」は,複数の大阪国税局幹部をOが合計1億円近く使って接待して脱税指南を受けたという大阪国税局の闇の実態の内容を広く市民に告発するもので,かなり世間で注目を集めた。(発売当初,大阪梅田の紀伊国屋書店での売上が上位を占めたらしい。)
ところで,独立してから私の事務所で妻京子を法律事務職員として手伝わせることとした。それと軌を一にして,私生活にも大きな変化が発生した。それは,私が弁護士となって10年間は,只管,仕事一筋だったのが,独立して間もなく,私が弁護士1年目から参加していた西名阪自動車道香芝高架橋の「超低周波公害訴訟」が和解によって終結したことが私生活をかえる引き金となっている。それは和解成立後,低周波公害の危険性を訴える「低周波公害裁判の記録」という本(注⑤)を弁護団で執筆し,その編集作業に京子が全面的に協力してくれたからだった。この本は,かなり売れたのでその出版費用で,弁護団とその家族で「南国の楽園」のフィジーに旅行することとなった(勿論京子も参加した)。これが実に楽しい旅行であったことから,以後,毎年京子と二人で海外旅行をすることにしたのである。これで私の弁護士人生は一変した。「仕事の合間に海外旅行をするのではなく,海外旅行に行くために仕事をしよう」と,その位置付けが大きく変わったからである。
私達二人が目指した旅行先は,①フロリダ(ナサとディズニーワールド見学)を初めとして,②ハワイ,③ケアンズ(グレートバリアリーフ),④シドニー⑤パース,⑥南ドイツ(素敵なノイシュバインスタイン城見学),⑦ベネチア(ゴンドラに乗る),⑧グリンデルバルト,⑨ザルツブルグなどであり,世界の目ぼしい都市をレンタカーで走り回り,主として異文化を知る旅だった。知人の弁護士からは「ザルツブルグとベネチアにはカルチャーショックを受けるよ」と言われていた。この2つの都市は,いずれも中世のキリスト教文化の影響を強く受けた素敵な街並みの残る都市だった。
ある時,スイスの保養地サンモリッツから,真っ赤なパノラマカーの氷河特急に乗って,ツェルマットまで10時間以上かけて,時速30km程度でゆっくりとアルプスの山々の間を走り抜ける素敵な列車の旅を経験した。そして,ツェルマットについてからは朝一番で登山電車に乗り,終点のゴルナグラードまで行き,そこからマッターホーンへとつながる3000m級の山々の裾野を歩いた。それは,「逆さマッターホーン」の映る小さな池の付近からゆっくりとなだらかな山道を下るもので,「世界の散歩道」と呼ばれているところだった。私と京子は,これで本格的な山歩き(トレッキング)に目覚めた。以後の海外旅行の目的地は,ニュージーランドやヒマラヤなど専らトレッキングのできる場所へと変化した。
その双璧がヨーロッパアルプスと,カナディアンロッキーをめぐる旅だった。このような私生活の変化は,新しいことにチャレンジすることが好きな京子に引っ張られて(例えば行く先々でスキューバーダイビング等を経験した),色々な観光地を旅行することとなったからだ。仕事一辺倒の関西合同時代とは,180°の転換となったことは言うまでもない。

4 弁護士20年目から30年目の出来事
この時期,私にとって一番大きな出来事は,司法改革に伴うロースクールの発足により,西宮市にある関西学院大学大学院司法研究科(関学ロースクール)の実務家教員として教授に就任したことだった。実務家の中でも行政事件の実務経験のある弁護士はあまり多くはない。そんな中で税金事件の経験の多い私に,行政事件を教えることができる実務家として白羽の矢が立ったようだ。
ロースクールが全国各地に設立されることとなったことに伴い,これまでの最高裁による司法研修所での裁判官養成中心の教育から,日本弁護士連合会(日弁連)が中心となって弁護士の養成を意識したロースクールでの教育改革を実現させようという触れ込みを信じて,私はロースクールの実務家教員に応募するために志望理由書を日弁連に提出した。しかし,現実は全く違った。日弁連の関与ではなく,各大学のロースクール関係者による,めぼしい弁護士への一本釣りが始まったのだ。私は行政事件の実務を教えることができる教員として関学ロースクールに要請されたのである。
私の担当科目は,専門とする「税務争訟法」,「公法実務」の外に「民事ロイヤリング」,「現代人権論」等だった。それ以外にもロースクールらしいものとして「クリニックB」(私の担当内容は税金事件で,学生が私の事務所に来て税金事件の裁判記録を検討しながら弁護団会議にも参加しつつ,生の事件を体験するもの)がある。この科目は,特定の内容に絞った弁護修習そのものであった。
私は精一杯,学生に私の弁護士活動の内容を伝える授業をしたことは言うまでもない。
この時私は担当する税務争訟法の授業内容を「正義教育」の一貫として多くの人に知ってもらおうとその内容を「正義をどう教えるか」というテーマで論文にして発表した(注⑥)。この授業は,私が経験した事件をベースにして作成した具体的設例を前提にして,毎週課題を出して納税者救済の立場で訴状や準備書面等を起案させるものであり,関学ロースクールの授業の中でも相当ハードでレベルの高いものだったと自負している。(勿論毎週受講者全員の課題を添削して返還をするので,私の負担も大きいものだった。)
さてここで,私なりのロースクールの制度の評価を述べておきたい。
関学ロースクールでは,司法改革の理念を忠実に実現するために,かなりユニークなカリキュラムを組み,それなりの成果を挙げていたと思っている。しかし,全国的には司法改革に伴うロースクール制度は失敗に終わったと評価する弁護士が多い。それには文科省の責任がかなり大きいと思っている。何故ならば,文科省の認可のもとで,結果的にロースクールの乱立を許してしまい,過剰な定員のため,年間3000人という従来の2倍以上の合格者増を予定していても当初の触込みの様にロースクールの終了生が「7・8割も受かる試験」となるはずはなく,当初の制度設計が大きく歪められる原因を作ってしまったからである。現在,全国に設立されたロースクールの半数以上が募集停止に追い込まれているのは,その顕れでもある。
そもそも合格者の大幅増を議論した時期がバブル経済の真只中で大量の弁護士の需要が見込まれていた時期であったものが,3000人体制が実施されんとした時には,バブルの崩壊後の日本経済低迷の時期で,需要と供給のバランスが完全に崩れてしまうという悲劇が重なった。あわてて日弁連が「急激な合格者人数増加の抑制」を言い出した時には,多くの修習生には就職難が待ち受けており,経済的にも厳しく,弁護士業の魅力は大きく阻害されてしまっていた。
私は,ロースクールの教員として,学生に弁護士の仕事の魅力を自信をもって語ることができなくなったことは残念でならない。しかも,修習期間の半減により,ロースクール出身の若い弁護士のレベルの低下は顕著であり,弁護士過誤を引き起こさないためにも修習期間を従前の2年に戻すなどの方策を考えるべきだと思っている。
さて,私にとってこの時期の大きな出来事がもう1つあった。それは妻の京子が司法試験を目指して関学ロースクールに入学してきたことだった。京子は大学時代に法学専攻であったため,ロースクールの入学にとりたてて違和感はなかった。しかし,事務所の仕事を手伝いながらの学業は,決して楽ではなかったであろう。そのうえ他の教員からは何かと注目される存在で,私も何となくやりにくいこともあった。
にも拘らず,京子は若い同期入学の学生と共に,毎週日曜日には私の事務所で一緒に司法試験対策のゼミを行い,ロースクールでも上位の成績をとりつつ,見事1回で司法試験に合格した。この時一緒にゼミを組んだ仲間の大半が司法試験に合格しているのは決して偶然ではない。
ところで,私はこの頃担当した税金事件の内容を教科書風に綴って出版した「税金裁判ものがたり」を(注⑦),私の「税務争訟法」のテキストとして使用した。これにより,学生は税金事件の具体的な内容を知ることが出来て一層の興味を持ってもらうことができたと思う。
それ以外に税金オンブズマンの活動の一環として,担当した固定資産国賠訴訟の内容を取り上げた「税の民主化をめざして」(注⑧)や,14年半も物納申請を大阪国税局から放置され続けた物納事件を取り上げた「裁判所は国税局の手先か」(注⑨)などを,税金オンブズマンの代表委員としてメンバーと共同執筆して不当な税務行政を追認した判決内容を世に問うことなどの活動をしている。
この時期,多くの事業者の支援の下で,「固定資産税の増税を争う国賠訴訟」と「高額の登記手数料の支払いを拒否する」集団訴訟を提起している。この2つの訴訟はいずれも国を相手とするものであるから,簡単には勝てないことはわかっている。しかし2件とも,「運動としての裁判」をも,目的として事業者の団体の支援を受けて提訴したものだ。
前者の事件は,「自治省の事務次官による依命通達によって各自治体の課す固定資産税評価を約4倍化しようとしたため,固定資産の評価が時価より高くなったこと(逆転現象)の違法性を争う裁判」で,依命通達での増税を裁判で批判すると,国はその内容を「通達から告示に格上げ」をし,さらに逆転現象が発生しないように評価の時期を可能な限り直近に改定して批判を免れるなど姑息なやり方をした。
後者の事件は「コンピューター化に伴い増額された登記手数料を,コンピューター化が終了したから元の手数料まで戻せ」と要求する裁判で,裁判の途中で法務省は手数料を一部減額して批判をかわすなどした。この種の,国のやり方を批判する集団訴訟は,裁判で負けないために国は立法的に解決してしまうことがあるので裁判での勝ち負けとは別に,目的を実現するという面白い結果となっている(裁判そのものは,残念ながらいずれも敗訴となった)。

5 弁護士30年目以降現在までの状況
さて,この最近10年間での大きな出来事は,京子が弁護士となり,私と一緒に事務所の弁護士業務を担ってくれていることだろう。これでかなり私の負担も軽くなり,事務所の経営も任せるに至っている。そして,この間2人で担当した税金事件を取り上げた「新税金裁判ものがたり」(注⑩)を共同執筆した。この著作は,税金裁判を担当してみたいと考えている若手弁護士や税理士を読者対象として,私のこれまでのノウハウも一緒に全て盛り込んで書き上げたものとなった。その意味で私の税金弁護士としての集大成とも言うべきものと思っている。
もう1つは,私生活面のさらなる変化である。京子の山への目標が,私との「山歩き」から本格的な「山登り」へと変化し,ヨーロッパアルプスの4000級の山々へチャレンジするようになったことだった。勿論,それは,シャモニーの山岳組合の優秀な元オリンピック選手でもあるガイドのサポートによるものだ。
最初は,イタリアアルプスの独立峰で4000mのグランパラディゾから始まり,ヨーロッパアルプス最高峰のモンブラン,次いでモンテローザ,さらにアイガーへと次々と登頂に成功し,ヨーロッパアルプスの中で残された目標とする4000m級の山は,マッターホーンとグランジョラス位だと豪語するまでになっている。
私は体力の衰えもあり,途中から京子の4000m級の山登りについて行けず,専ら京子の山登りのサポート役に徹することとなった。
最近は,シャモニーにある,モンブランがベランダから見渡せる素敵な宿(サボア)で京子の帰りを待ちながら,避暑を兼ねて各種の原稿の執筆に専念できることが大きな楽しみとなっている。
私の41年の弁護士生活を振り返った時,石川弁護士のように数多くの公安・労働事件を担当し,はなばなしい成果を挙げたわけでもなく,山下弁護士のように,瑞々しい感性を持ち続け,若い後輩の弁護士と一緒になって「国境なき刑事弁護団」と称して,外国で日本人の巻き込まれた刑事事件の弁護(無罪判決を獲得している)までも担当する(注⑪)気概もない。
しかし,長年にわたり,粘り強く関与した税金事件を取扱った書籍を何冊か出版することが出来た。これを読めば,現在の税務行政の実態を知ることができ,それを改めさせるため,長年の私の闘いを若い人に引き継いでもらえるかもしれない。「税務行政の民主化の闘い」は,私のライフワークである。
これからあと何年弁護士を続けられるかわからない。でも,何とかして自分の歩んできた足跡を二人の大先輩のように残して,多くの後輩の人達の参考にしてもらい,共に税の民主化のため頑張って欲しいと願っている昨今である。

注① 石川元也著「創意」2020年,日本評論社刊,264頁以下。
注② 山下潔著「裁判余話」2020年,中央印刷株式会社刊,13頁。
注③ 拙稿「配転(単身赴任)命令拒否と懲戒解雇」(1986年労旬1152号)47頁以下。
注④ 拙著「立ち上がれ怒りの納税者たち」1995年,向陽書房刊。
注⑤ 西名阪低周波公害裁判弁護団編著「低周波公害裁判の記録」1989年,清風堂書店刊
注⑥ 拙稿「正義をどう教えるか-税務争訟法の授業を素材にして」2006年,関西学院出版会刊,231頁以下。
注⑦ 拙著「税金裁判ものがたり」2004年,せせらぎ出版刊。
注⑧ 税金オンブズマン編著「税の民主化を求めて」2002年,せせらぎ出版刊。
注⑨ 税金オンブズマン編著「裁判所は国税局の手先か」2013年,せせらぎ出版刊。
注⑩ 関戸一考・関戸京子共著「新税金裁判ものがたり」2019年,メディアイランド刊。
注⑪ 山下潔著「人間の尊厳の確保と司法」2016年,日本評論社刊,317頁以下。

アイガー登頂記

1 アイガー登頂の前哨戦はマッターホルンだった

2019年8月23日,妻京子はヨーロッパアルプスの中でもマッターホルン(Matterhorn)と共にあこがれの山の1つのグルンデルバルト(Grindelwald)にあるアイガー(Eiger,3967m)の登頂に運よく成功することができた。

そこで,ここに至るまでの経過を,どのような準備と失敗を重ねつつ,たどり着いたのかを,サポーターである私の立場から御報告したいと思う。

アイガーをめざす前に,京子がチャレンジしてきたのはマッターホルンだった。マッターホルンへのチャレンジの第1回目は,2年前の2017年8月に遡る。マッターホルンは御承知のように,ほとんどが岩の切り立ったところを登り続けることが要求される4478mの険しい山だ。頂上へは3260m付近にあるヘルンリヒュッテからスタートして,ほぼ垂直に崖のような岩を約1200m以上登り続けることが要求される。だから基礎体力のみならず,岩登りの高度な技術が必要となる。

京子は,マッターホルンへの挑戦をするため,シャモニーの登山ガイドのフローリアンにシャモニーの岩場や隣のイタリアのアオスタで岩登りの特訓を受けてからチャレンジした。京子はやせているため,慣れてくると筋骨隆々のクライマーより登るスピードは早いらしい。そのため,フローリアンからは,岩登りに関しては,十分合格点をもらうことができていた。

しかし,2年前のチャレンジでは,マッターホルンの頂上付近に雪が残っており,コンディションはあまり良い状況とは言えなかった。そのうえ,午後から天候が崩れることが予想されたため,4003m付近にあるソルベイ小屋で引き返すこととなってしまった。フローリアンからみて,「天候が崩れる前に急いで登頂して戻ってくるほどの体力は,京子には残っていない」と判断したからだろう。この日に登頂に成功したのは,先頭切って登って行った若い元気のある登山者達だけだったらしい。スイスのアルパインセンターでは,この日のマッターホルンは雪が残っていたため,ガイド登山は中止していたとのこと。そのためこの日チャレンジした登山者は比較的少なく,京子は,「かなり大変だ」と言われていたソルベイ小屋までは行けたので,再度のチャレンジを期して戻ったのだった。

 

2 マッターホルンの再チャレンジに向けての準備

  さて京子は,昨年(2018年)の夏もシャモニーへ行き,山岳組合のガイド・フローリアンにアルプス登山のガイドを依頼していた。当然,京子はマッターホルンへ再チャレンジすると思いきや,今度は,「アイガーにチャレンジしたい」と頼んだのだ。

アイガーは,難易度で言えば,基礎体力はマッターホルンと同程度だけれど,岩登りの技術レベルは,マッターホルンより「もう一段上」と評価されている。それは,マッターホルンと同じような岩場の多い山ではあるが,マッターホルンとは違い,最初に困難な岩場を登るために途中で戻ることが困難となり,あくまで縦走形式の登攀が要求されるためらしい。下山の際も,一度は下った後,隣の4000m級のメンヒの近くまで再度上ってから降りる必要があるため,結構大変のようだ。

ところが京子は前年にマッターホルンへのチャレンジで4003mのソルベイ小屋まで行けたためか,日本で事前に十分なトレーニングをせずシャモニーに向かった。そこで,アイガーの練習用にと,フローリアンが連れて行ってくれた4000m級のカスターと,ブライトホルンのハーフトラバースコースで,共に息切れを起こしてしまった。この時は,明らかに4000mの高度順応不足に加え,基礎体力の補強不足で,アイガー登頂にトライをすることすら許してもらえず,日本に戻ってくることになってしまった。

そのため,今年は昨年の反省で,まず日本でもできる限りの準備を重ねることとした。今年の4月には槍ヶ岳,5月には剣岳へと登り,そして高度順応のために,富士登山を準備した。富士山頂で1泊して戻ることをすれば十分ではないものの,ある程度の高度順応ができるらしい。JAC(日本山岳会)のベテランメンバーによれば,「富士山に登れば,1ヵ月位は高度順応の効果がある」とのことだ。そのため,7月中旬から8月上旬にかけて3回富士山へ登る予定を組んだ。しかし3回とも天候が悪くて富士登山が出来なかった。特に3回目の8月上旬は,雷雨注意報が出ており,「危険だから絶対登らないこと」とされていた。富士山で雷が発生すれば,遮るものが何もないため,大変危険とのことだ。

前年,フローリアンに,高度順応の件を確認していたところ,「日本では4000m級の山がなく,限界があるから早くシャモニーに来る方が良い」と言われていた。日本で最も高い富士山でも高度は3776mでしかないから,そのとおりかもしれない。でも富士登山はやっておこう,と準備したのだ。

それ以外には,京子は日常のトレーニングとして,5月頃から2kgの重りを両足に付け,15階建ての自宅のマンションの階段の往復(3往復から5往復位)を毎日繰り返しをした。脚力を付けるには,これは非常に効果があると京子は言う。このトレーニングは,アフリカ大陸での苛酷な大会に参加をし,上位入賞した日本人の女性が,「自分の働くオフィスがある30数階建ての高層ビルの階段を,10キロのリュックを担いで上り下りをして訓練した」という話を聞いて実行した方法だった。

日本での準備は必ずしも十分とは言えなかったが,「今年は何としてもマッターホルンに登頂をしてみせる」と意気込んでいた。フローリアンからは,「3週間シャモニーに滞在できれば,必要な4000m級の山へ登り,トレーニングをする」言われていた。しかし,夏休みといえども3週間も事務所を空けるのは難しく「2週間は滞在できるように予定を組むからそれでお願いしたい」と伝えていたのだった

 

3 マッターホルン登頂に向けてのシャモニーでのトレーニング

フローリアンからは,事前にどのようなスケジュールでトレーニングをするのか,メールで連絡をくれることとなっていた。しかし何の連絡もない。シャモニーに着いてから確認すると,フローリアン曰く,「今年はヨーロッパ(シャモニーやツェルマット)の天候が不順のため全く予定が立たないからだ。」とのこと。事前の天気予報は全く当たらず,前日になって山岳組合の掲示板で翌日の天気を確認する毎日だった(ヨーロッパでも全般的に異常気象が発生しているようだ)。

大まかな予定とすれば,最初の1週間で4000m級のトレーニング用の山へできる限り登り,後半の週の水,木,金で天候の様子を見て,マッターホルンに登るという予定だった。

さてここで,シャモニーに滞在中にどのようなトレーニングをしたのかを簡単に整理しておこう。

① 8月10日から11日に4000m級の山に登る

最初はスイスのサースグルンド(Saas-Grund)にあるラギンホーン(Laggin horn,4010m)に登る。鋭い岩山で,マッターホルンの練習山として,ひたすら,岩を登るだけの山だった。山小屋(3200m)に泊まり,翌朝4時半に出発して,山頂へ,そして12時頃に山小屋へ戻る。京子曰く,「いきなり4000m級の山へ登り,途中足がふらつき,力が入らなくなった」とのこと。宿に戻ってから,「太ももが痛い」と言い出して,以後,私は連日太もものマッサージをさせられることとなった。この日,フローリアンは,山小屋を出ると素早く飛び出すように山に登りだしたという。その理由は後でわかった。

② 8月14日(水),8月15日(木)は高度順応の準備の日となる

この2日間は,山岳組合の恒例のフェスティバルの日のため,フローリアンの援助は受けられない日だった。そのため,京子は1人でシャモニーの街の,エギュード・ミディへのロープウェイ乗り場の裏手から,中間駅のプラン・ドエギューまで約1000mを登り,そこからエギュード・ミディの頂上(3842m)まで行き,2時間位,高度順応をして戻ってくることとした。

1日目は,最初の4000mの山登りで痛めた太もものせいで,1000mの登りが大変だったとのこと。宿に戻って太もものマッサージを受けて少し楽になったという。エギュード・ミディの頂上の展望台は,3800m以上の高度のところにある。京子は以前モンブランに登ったときにも,雨の日にエギュード・ミディの頂上にある展望台へ行き,そこの階段の「上り下り」でトレーニングをした。これは大変効果があったので,今回もここで高度順応を試みたとのことだった。

2日目は,1日目とは異なり大氷河・メールド・グラスに向かう登山電車の駅モンタンベールを経由する別のコースを歩き,プランド・エギューまで登っていったが,明らかに案内板に表記された予定時間よりも相当早く歩くことができ,前日の高度順応の効果があらわれてきた,と京子は言った。

③ 8月16日(金),3000m以上の練習山へ登る

この日は,再度フローリアンとプランド・エギュー(中間駅)までロープウェイで行き,ここからマッターホルンに似た岩山に登る。ここでもフローリアンは中間駅に着くと,脱兎の如く,素早く歩き出していく。やっとその理由がわかってきた。それは,マッターホルンでは,登山基地のヘルンリヒュッテからスタートして,途中にあるフィックスロープにたどり着くまで,良い場所を確保するために他の登山者と競争をしなければならないからだ。それを意識しての訓練だったと悟ったのだ(これを日本の国際ガイドは俗に「マッターホルンレース」と呼んでいるらしい)。最初の4000m級のラギンホーンでは,フローリアンの早歩きについて行けずに太ももを痛めたが,今回はトレーニングの成果が徐々に出始めており,「何とか遅れながらも着いていけた」とのことだった。日本のガイドによれば,「マッターホルンレースでは,上位に入らないと良い場所を確保できず,結果的に登頂は不可能となる」とまで言われているらしい。(ほんとだろうか?)

④ 8月17日(土),18(日)はバイスミスに登る

この日はフローリアンの兄のバートランドと一緒に,バイスミス(Weiss mies,4017m)へ登ることとなる。フローリアンは,別の予定があったため,バートランドに予めガイドを頼んでいたようだ。この山は最初に登ったラギンホーンの隣りにあり,サースグルンドの近くのサースアルマゲル(Saas-Almagell)から3時間かけてアルマゲルハットに登り,そこを基点に翌朝4時半からバイスミスの登頂を目指す。往きは岩のある山登りの道を進み,帰りは反対側のノーマルルートの雪道を下り,サースグルンドに降りて,シャモニーへ戻る。今回は,2度目の4000m級の山へのチャレンジであり,京子はかなり余裕を持って登ることが出来たらしい。バートランドはその様子をフローリアンに連絡をしていた。

⑤ 8月20日(火)はインドア-クライミング(indoor-climing)をする

この日は朝から雨のためどこにも行けず,午後からシャモニーの隣の街レジュースへ,インドア・クライミングに連れて行ってもらう。京子はインドア・クライミングは初めてだったので,私も一緒について行ってその様子を写真に撮る。室内の壁のいたるところに手や足を引っ掛ける障害物がついており,補助のロープをつけて天井に登って行く。岩山でのロッククライミングは慣れているせいか,初めてにしてはうまい。3時間位いろいろな壁に挑戦してから宿に戻ってくる。

⑥ 8月21日(水)にイタリアのエルブロンネの近くの山に登る

フローリアンが朝7時に迎えに来る。この日はエギュードミディのイタリア側の山へ練習として登ることとなる。3500mを優に超えた山のようだった。

以上が,概ねシャモニーでのこの間のトレーニングの様子だ。わずか12日間で4000m以上の山へ2つと,3000m以上の山へ2つ登り,その間,クライミングの練習をし,高度順応のため3800m以上の高所にあるエギュードミディの展望台に2回,2時間以上滞在して準備を重ねた。

短期間で,以上のような集中トレーニングを行うと,明らかに山登りの基礎体力も強化されてくる様子が見られた。

 

4 アイガーへ向けてのチャレンジに変更される

ところで,8月18日の日曜日にシャモニーの宿に戻った後,フローリアンは,「残念だが,月,火と天候が悪く,マッターホルンは雪が降る。そのため今回,マッターホルンへの登頂は無理だと思う」と京子に告げた。

そして,その言葉通り,8月19日月曜日は,天候は荒れて大雨だった。

ところが,この日の夕方,がっくりしていた京子に,フローリアンから,「マッターホルンは無理だが,21日(水),22日(木),23日(金)でアイガーとユングフラウ(Jungfrau・4158m)に行く」と告げられたのだ。この突然の変更に京子が大喜びをしたことは言うまでもない。しかし問題は,アイガーの基地となるミッテルレギ小屋(Mittellegi・3355m)が21日からオープンしているかどうかだった(マッターホルンの登山基地ヘルリヒッテは,雪のため閉鎖したままだったらしい)。

フローリアンは,8月20日(火)にインドア・クライミングへ行ってから,ミッテルレギ小屋に確認の電話をした。でも,残念ながら翌8月21日(水)は「天候がまだ回復せずopenしない」との返事。とりあえず,翌日はイタリアのエルブロンネ付近の山へ登りに行くこととなった。しかし,再度,翌日,「8月22日(木)はopenしないか確認する」とのこと。フローリアンは,「アイガーならば,登れるかもしれない」と考えていたようだ。

そこで,翌日,再度確認をすると,「明日はオープンする」との返事があった。フローリアンは,「8月22日(木),23日(金)に,アイガーに登る」と京子に告げたのだ。憧れの山の1つだったユングフラウは断念することとなったものの,アイガーに登ることができれば,今回トレーニングを積んで頑張った甲斐があったということになる。これでひとまず京子も安心することができた。それは8月24日(土)の朝には,日本に向けてジュネーブからフライトをする予定で,これが最後のチャンスとなるからだ。

翌8月22日(木),朝8時半にフローリアンは宿へ京子を迎えに来た。この日にミッテルレギ小屋まで行き,翌朝アイガーに登り,そのままシャモニーに戻る予定とのことだった。しかし,フローリアンは天候のこともあり,「何時にシャモニーに戻ってくることができるかはわからない」と言って,グリンデルバルトに向かった。

しかし,ここから,私の心配事が発生した。

私はアイガーの翌日の天気を,スマートホーンで検索してみたからだ。すると「アイガーの天気,8月23日(金),にわか雨,最高気温0℃,最低気温-9℃,降水確率50%」と表示された。そうなるとアイガーの頂上は雪となる可能性がある。岩山だから登頂は無理かもしれないと思い,心配で夜眠れなくなってしまった。でも「フローリアンと一緒だから大丈夫だろう」と自分に言い聞かせて,何とか眠りについた。

翌朝は5時に起床。シャモニーの天候は晴。落ち着かないのでメールドグラスからの雪解け水が流れている私のお気に入りの散策コースを歩いて,昼過ぎ宿に戻る。すると,突然3時過ぎ,京子から電話が入った。「無事登頂した」とのこと。シャモニーには夕方6時頃に戻ってきた。

京子は,「アイガーの天候は良かったよ」と言う。私は,今年の天気予報は全くあてにならないことを思い知らされた。さらに京子は「ミッテルレギ小屋から山頂まで,日本の旅行会社の案内文では,7時間の行程となっているが,それを3時間半で登った」と自慢げに述べた。小屋を20分前の5時に出発した第一陣の登頂をめざすグループ(10数名いる)をすべて追い越し,一番に登頂したため,他のガイドが「あれは誰だ」とフローリアンに話しかけていたと言う。フローリアンは,今日の京子の頑張りを見て,自慢顔だったようだ。彼の奥さんから電話で,「コングラッチレーション」と言われ,喜んでいたという。ガイドといえども,やはり自分のクライアントをアイガーに無事登頂させることができたことは嬉しいようだった。

 

5 アイガーへの登頂は無事成功したが次は何処か

今回は,マッターホルンへのチャレンジが,直前に雪が降ったため不可能となり,急遽アイガーに変更となった。でも十分な事前トレーニングを積んでいたため無事登頂に成功することができた。トレーニングの成果は,側で見ていてもわかる程だった。今回はそのうえ,他のガイドが驚くほどのスピードでアイガーの頂上まで登り切ることができた。私がこれを「信じられない」と言うと,京子は,アイガーの頂上でとった携帯写真に表示された撮影時刻を示して「嘘ではないでしょ!」と強調した。

来年はマッターホルンではなく,思いきってグランジョラス(Grandes Jorasses 4208m)にも挑戦してみようか,と京子は言う。フローリアンはマッターホルンへはOKと言うだろうが,グラジョラスはアイガーのように険しい岩山のうえに,アイスピッケルを使って登ることが要求されるアルプス最難関の山なので,「特別の訓練が必要だ」と言うだろう。京子には今年のような頑張りを期待したいものだ。

そうは言っても,宿で待機することになるサポーターは精神衛生が全く良くない。でも「一緒に登れない以上,しょうがないだろう」と自分に言い聞かせている。

 

(2019年8月9日~8月24日

までシャモニーに滞在する)

関 戸 一 考 記

相続法制の改正を考える(その1)

相続法制の改正を考える(その1)

1.相続法制の大幅改正がされる

近年,民法典の相続法制が昭和55年以来の40年ぶりの大幅な見直しが行われました。相続法は,弁護士業務のみならず税理士業務においても重要で,国民生活にも密接にかかわるものだけに,その法改正の中味を正確に知っておく必要があります。

そこで,その改正の内容を皆さんに簡潔にご説明致します。

2.相続法改正の契機は何か

平成25年9月4日に最高裁判所で「非嫡出子の法定相続分を嫡出子の2分の1と定めた民法900条4号但書き前段の規定を違憲とする」旨の判断が示されました。そのため,この規定を削除する法案が出されたことが,相続法制を全般的に見直しをする契機となったと言われています。

それは,日本社会の少子高齢化の進展に伴う社会経済情勢の大きな変化が背景にあります。つまり,相続開始時に残された配偶者の年齢が相対的に高くなり,その生活保護の必要性が高まる一方で,少子化により相続人である子供の数が減少し,その取得割合も増加しつつあります。そこで,これらに見合った形で,相続法制全般の見直しの必要性が指摘されたのです。

そのため,相続法制の見直しに関する法務省の法制審議会の答申を踏まえ,以下の2つの法案が出されました。

第1の法案が「民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律案」です。

第2の法案が「法務局における遺言書の保管等に関する法律案」です。

この2つの法案は,2018年(平成30年)7月6日可決成立し,同月13日に公布されました。

 

3.今回の改正を3つの観点から検討します

さて,今回の法改正は,相続法全般に亘っていますが,大きく次の3つの観点からこれを鳥瞰することができます。

(1)第1の観点は,配偶者保護のための方策です

① 「持戻し免除の意思表示」の推定規定(新民法903条4項)

この規定は,特別受益者の相続分を算定するに当たり,その特別受益を受けた配偶者が,20年以上の夫婦として,居住の建物又はその敷地を遺贈又は贈与を受けた場合には,その分の評価を加算して相続分の計算をしなくとも良い旨の意思表示があった(これを「持ち戻し免除の意思表示」といいます)として推定する旨の規定です。

② 配偶者居住権(新民法1028~1036条)の新設

被相続人の配偶者の居住建物を対象に配偶者にその使用を認める法的権利を創設し,遺産分割等における選択肢の1つとしてこれを認めるものです。

③ 配偶者の短期居住権(新民法1037~1041条)の新設

被相続人の配偶者が相続開始時に遺産の建物に居住していた場合には,遺産分割が終了するまでの間,無償でその居住建物を使用できるようにするものです。

これらの規定はいずれも被相続人の死亡後に残された配偶者の居住権を保護するために認められたものです。

(2)第2の観点は,遺言の利用促進のための方策です

① 自筆証書遺言の方式の緩和(新民法968条関係)

これまでは自筆証書遺言をする場合には,遺言内容の全文,日付,氏名を自書しなくてはなりませんでした。しかし遺言内容のうち不動産や預金などの財産目録に関しては,自書する必要はなく,目録そのものに署名,押印するだけでよいことになりました。

② 遺言執行者の権限の明確化(新民法1007条,1012条~1016条)。

この規定は,遺言内容の円滑な実現を図るために遺言執行者の権限を明確化し,無用な紛争が生じないようにしたものです。

③ 法務局における自筆証書遺言書の保管制度の創設(遺言書保管法)

この制度を利用することにより,自筆証書遺言の紛失や隠匿等が防止できるようになりました。この制度を利用した場合には,「裁判所による自筆証書遺言の検認手続き」は不要となります。

(3)第3の観点は,相続人を含む利害関係人の実質的な公平を図るための見直しです

① 遺産の分割前に遺産に属する財産が処分された場合の遺産の範囲(新民法906条の2)に関する規定の創設です。

この規定は,遺産分割前に財産が例えば共同相続人の一人によって処分された場合には,他の共同相続人の同意の下に,処分をした共同相続人の取り分を組み戻し,処分前と同等にすることができるとするものです。

② 「特別の寄与制度」の導入があります(新民法1050条)

この制度は,相続人に該当しない親族(相続人の配偶者など)が被相続人に対し介護等の貢献を行った場合に,この貢献に報いるため,この者が相続人に対して金銭請求をすることができる制度を創設するものです。

 (4)それ以外の見直しで留意すべき主な点は次の通りです

① 遺産分割前の預貯金の払戻請求を認める制度の創設があります(新民法909条の2)。

この制度は,平成28年に最高裁判例が変更されて,預貯金も遺産分割の対象とすることとなったため,遺産分割が終了するまでの間は相続人単独では預貯金債権の払戻ができず,葬式費用の支払いや生活費の支出のため困ってしまうのを改善しました。

但し,単独で銀行等の窓口で払い戻しのできる額は預金額の3分の1に法定相続分を乗じた分に限ります(金融機関毎に150万円が上限となります)。

② 遺留分権利者の権利行使によって生ずる権利の金銭債権化の創設(新民法1046条)があります。

これまでは,遺留分の権利を行使すると,すべての財産について共有関係が生ずるとされていました。しかし,これをやめてすべて金銭債権化することになりました。これにより,遺留分侵害の対象不動産等を売却する必要性がなくなりました。

③ 「相続させる」旨の遺言等によって承継された債権が法定相続分を超える分について,対抗要件主義とする旨の規定の創設(新民法899条の2)がされました。

これによって,遺言書で法定相続分を超える分を共同相続人の一人に認めていても,法定相続分を超える分については対抗要件(登記等)を備えなければ第三者に対抗できないこととなりました。

 

4.改正法の施行日はいつかを示します

(1)第1の法律の施行日は次の通りです。

原則 2019年7月1日から施行です。

例外1 自筆証書遺言の方式緩和の部分は,2019年1月13日からです。

例外2 配偶者の居住の権利の部分は,2020年4月1日からです。

(2)第2の法律の施行日は次の通りです。

法務局における保管制度は,2020年7月10日から施行です。

5.まとめ

以上のとおり,相続法制の改正の規定の概観を示しました。これらの法改正の内容を知らないと,今後は業務に支障が生じかねませんので注意を要します。

新民法の改正条文を示しましたので,詳しくは条文を参照してみてください。

相続法制の改正を考える(その2)

相続法制の改正を考える(その2)

1.はじめに

前回では相続法制の改正の契機とその内容についての概観(全体像)を,3つの視点からお示ししました。

今回は,前回に示した概観にそって改正法について具体的な内容に踏み込んでお話します(改正条文を引用しておきましたので,参照してみてください)。

2.配偶者保護のための方策について

相続法制の改正は多岐に及んでいますが,まず最初に示した「配偶者保護のための方策」としてどのような内容が規定(新設)されたのか,という点からお話します。大きく3つの改正点があります。

(1)「持ち戻し免除の意思表示の推定規定」(新民法903条4項)

規定の内容(新民法903条4項)

 この規定は,婚姻期間が20年以上の配偶者の一方が,他方に居住用不動産(土地及び建物)を遺贈又は贈与した場合に,遺産の先渡し(特別受益)を受けたものとして取り扱わなくともよい(これを「持ち戻し免除の意思表示」といいます)との意思表示をしたと推定する,と言うものです。

この規定はあくまで推定規定ですから,被相続人から反対の意思表示があった場合には推定はされません。

この内容を理解するために,これまでの制度と改正法ではどのように取り扱われるかを説明します。

具体例を示します。

 被相続人が20年以上連れ添った配偶者に,居住用の家と土地を,生前に,贈与した場合,遺産分割でどのように取り扱われるのでしょうか。

  ① これまでの制度(特別受益者の相続分民法903条1項)の場合

生前に贈与を受けたとしても,遺産の先渡し(これを「特別受益」といいます)を受けたものとして取り扱われるため,最終的に遺産分割で取得する財産額は,贈与がなかった場合と同じ取扱いとなります(具体的には何らの意思表示がなければ法定相続分の通りとなります)。

② 改正法による場合の取扱い

被相続人の持ち出し免除の意思の推定規定を設けることにより,原則として,遺産の先渡しを受けたものと取り扱う必要がなくなり,配偶者はより多くの財産を取得することができるようになります。つまり,贈与の趣旨に沿って,贈与財産は遺産分割の対象財産からはずされて,残りの遺産で遺産分割がなされることになるのです。

(2)配偶者の長期居住権の保護のための規定(新民法1028条から1036条)

ア.「配偶者居住権」の新設の規定

① 意義を示します

「配偶者居住権」とは,配偶者が相続開始時に居住していた被相続人所有の建物に対し,原則として終身の間,建物の使用を認める,「法定の権利」をいいます(新民法1028条1項本文)。

② 取得原因を示します

ア 遺産分割協議(1028条1項1号)

イ 遺贈(同項2号)

ウ 死因贈与(民法554条が準用する1028条1項2号)

エ 遺産分割審判(1029条)

③ 効果を明らかにします

ア 配偶者は,居住建物の全部について使用収益権を取得します(1032条1項)

イ 期間は原則として終身の間となります。但し別段の定めによる例外があります(1030条)

④ 消滅事由を示します

ア 建物所有者による配偶者の用法違反等を理由とする消滅請求(1032条4項)

イ 配偶者の死亡(1036条,債権の改正法597条3項)

ウ 目的物の滅失等使用不能(1036条,債権の改正法616条の2)

エ 期間満了(1036条,597条1項)

イ.制度導入のメリットは何でしょうか

配偶者が自宅で居住することを選択しても,配偶者居住権ならば評価は安く,その他の財産をより多く取得できる余地が生まれます。つまり配偶者居住権を選択した場合,その財産評価は,居住用財産の所有権から切り離され,ある程度低く評価されるため,残余の権利分(これを「負担付き所有権」といいます)を,他の相続人が取得することになり,その分だけ配偶者が別の財産(預貯金等)を取得できるようになるからです。

ウ.具体例を示します。

相続人が妻と子で,遺産が自宅(2000万円)と預貯金(3000万円)の場合(遺産総額5000万円)で,相続分は1対1の場合を考えます。

現行法 ①妻が自宅の所有権を取得(2000万円)すると,預貯金は500万円しか取得できません。

②子は預貯金2500万円を取得することになります。

改正法 ①妻が自宅の配偶者居住権を取得(500万円と評価する)すると,預貯金の取り分は負担付き所有権分(1500万円)だけ増えて,合計2000万円を取得できることになります。

②子は,負担付所有権(1500万円)と預貯金1000万円を取得することになります。

但し,配偶者居住権の評価方法については,今後様々な知見に基づいて確立していく必要があるとされています。

(3)「配偶者の短期居住権」の保護のための規定(新民法1037条から1041条まで)

ア.「配偶者短期居住権」の新設規定(1037条)

① 意義を示します

配偶者が相続開始時に被相続人の建物に無償で住んでいた場合に,一定の期間,居住建物を無償で使用する権利,を取得することができるようにしました。これを「配偶者短期居住権」といいます。

② 保護される期間はどれ位でしょうか

ア 配偶者が遺産分割に関与する時は,居住建物の帰属が確定するまでの間(ただし,最低6ヶ月間は保障されます)居住建物を無償で使用できます(1037条I項1号)。

イ 居住建物が第三者に遺贈された場合や,配偶者が相続を放棄した場合でも,居住建物取得者から消滅請求を受けてから6ヶ月間は保護されます(1037条I項2号,Ⅲ項)。

イ.制度導入のメリットはどこにありますか

配偶者が被相続人の建物に無償で居住していた場合,被相続人の意思にかかわらず,一定期間はこれを保護するもの(最低6ヶ月間は保護される)です。

3.まとめ

高齢化社会の進展に向けて,残された配偶者の老後の生活保障の必要性が高まってきます。

そのために,今回の相続法制の改正では,配偶者居住権または配偶者短期居住権という権利を認めて,配偶者の居住用の建物の利用を保護する制度が導入されています。

しかしながら,配偶者居住権の評価をどのようにして算定するかという点は,必ずしも単純ではありません。

特に,相続税の算出のため,配偶者居住権を控除した負担付き所有権の評価額と,売買のための負担付き所有権の実勢価額には乖離が生ずる可能性もあり,今後の課題でもあります。

尚,配偶者居住権に関する規定は,民法の債権法改正とも密接にかかわる部分があるため,民法の債権法の改正の施行日と同じ2020年4月1日以後に開始した相続について適用されます。

 

相続法制の改正を考える(その3)

 相続法制の改正を考える(その3)

1.はじめに

前回は相続法制の改正のうちで,一番の中心的な課題とされた配偶者保護に関する改正点を説明致しました。今回は,遺言の利用促進のための規定の創設と,関係者の実質的な公平を図る規定の創設についてご説明致します。

2.遺言利用促進のための新設規定

(1)自筆証書遺言の方式の緩和規定の新設

自分で簡単に作成できる自筆証書による遺言の場合には,日付と署名押印のみならず,「遺言書の全文を自書する必要がある」と,その方式は厳格に定められています(民法968条)。

しかし,遺言の全文の自書をすることは,財産が多数ある場合には相当大変な作業となります。

そこで新民法968条2項で財産目録について以下のとおり規定されました。

ア.新民法968条の2項の内容

 自筆証書に,これと一体のものとして相続財産の全部又は一部の目録を添付する場合には,その目録については,自書することを要しない。

その場合において,遺言書はその目録の毎葉に署名し,印を押さなければならない。

イ.制度導入のメリットは何でしょうか

この規定により,パソコンで目録を作成したり,通帳や登記事項証明書のコピーを添付して,財産目録とすることができるようになりました。但し,その場合すべてのページに署名・押印をしておくことが必要となります。こうすることにより,遺言書の偽造や変造を防止することができます。

但し,その変更には,変更場所を指示して,その場所に署名・押印しなければならない(新民法968条3項)とされていますので注意が必要です。

(2)法務局での自筆証書遺言の保管制度(遺言書保管法)の創設

  ア.この法律の立法趣旨はどのようなものでしょうか

自筆証書遺言は,公正証書による遺言とは異なり,いつでも簡単に作成することができます。でも,自宅に保管されることが多いため,紛失したり,相続人の一部の者によって廃棄・改竄などが行われる可能性があり,そのため相続人間で紛争の生ずるおそれがありました。

そこで,法務局で自筆証書の遺言書を保管することによって,遺言の利用促進と遺言書の紛失や隠匿等の防止など図ることができるように,その保管を法律で定めたものです。

イ.利用の方法を示します

遺言者自身が住所地や本籍地などの遺言書保管所(法務局)へ出頭して保管手続きをします(その場合遺言書は,決められた様式で,封のないものであることが要求されます)。

ウ.効果を示します

① 相続開始後に,相続人は法務局で遺言書の写しの交付や閲覧が可能となります(遺言者の生存中は,遺言者以外は遺言書の閲覧ができません)。

② ①の場合,法務局から他の相続人に遺言書が保管されていることが通知されます。

③ この手続きを利用した場合,家庭裁判所での自筆証書遺言の検認手続きは不要となります。

④ 但し,この制度を利用しても保管後に遺言書の保管申請の撤回は可能です。

(3)この制度のねらいは何でしょうか

現時点では,遺言を残さず亡くなる人が相当数いることから,遺産の分配をめぐる無用な紛争を防ぐことを目的としています。

平成29年の統計によりますと,その年の死亡者の10分の1以下しか遺言書の作成が確認されていません(公正証書作成件数と検認件数の合計は,死亡者134万人に対して12万8000件足らずとされています)。

今回の法改正により,自筆証書遺言をより利用しやすいものとすることができます。

 

3.関係者の実質的な公平を図る規定の創設

  この点に関する規定の創設は2つあります。

(1)遺産分割前に処分された遺産の範囲に関する規定の新設

その内容は以下のとおりです。

ア.新民法906条の2の内容

 遺産の分割前に遺産に属する財産が処分された場合であっても,共同相続人は,その全員の同意により,当該処分された財産が遺産の分割時に遺産として存在するものとみなすことができる(同条第1項)。

イ.この制度導入の目的は何でしょうか

この規定は,例えば不当に第三者又は相続人の一人によって処分された財産を,共同相続人全員の同意によるか,処分者以外の相続人の同意(同条第2項)により,その分を遺産分割の対象に含めて,不当な処分がなかった場合と同じ結果を実現できるようにするものです。

 

(2)特別の寄与制度の規定の新設(新民法1050条)

ア.この規定の目的は何でしょうか

相続人以外の親族が,被相続人の療養看護等を行った場合,相続人に対して金銭の支払いを請求することができるようにして,その貢献に報いるものです。

イ.新民法1050条の内容

① 改正の内容(1050条1項)

 被相続人に対して,無償で療養看護その他の労務の提供により,被相続人の財産の維持又は増加に特別に寄与した被相続人の親族は,相続人に対し,特別寄与料の支払いを請求することができる。

② 効果を示します

特別に寄与した親族(これを,「特別寄与者」といいます)は相続人に対し,「特別寄与料支払請求権」を取得します。各相続人は,特別寄与料を法定相続分に応じて負担することになります(1050条5項)。

③ 特別寄与料決定手続(1050条2項)はどうなっていますか

特別寄与料の支払金額は,当事者間の協議により決定します。これが調わない時は,家庭裁判所の審判によることになります。

④ 行使期間の制限(1050条2項の但書)があります

特別寄与者が相続開始及び相続人を知ったときから6カ月,又は相続開始から1年を経過した時は,もはや支払いを請求することはできません。

ウ.制度導入のメリットは何ですか

これまでは,相続人以外の者(例えば長男の妻)が,生前被相続人の介護に尽くしても,相続財産を取得することができませんでした。しかし,それを是正して,特別寄与者は他の相続人に対して金銭請求ができることとして,介護等の貢献に報いるようにしたものです。

 

4.改正法の施行時期を示します

(1)自筆証書の方式の緩和規定

この部分は2019年1月13日から施行済です。

(2)遺言書保管法

この法律は2020年7月10日から施行予定です。

(3)それ以外の規定部分

本稿のそれ以外の部分は,改正相続法の原則通り2019年7月1日からの施行です。

相続法制の改正を考える(その4)

 相続法制の改正を考える(その4)

1.はじめに

相続法制の改正の内容を,これまで,①配偶者の保護,②遺言書の利用の促進,③利害関係人の公平を図る制度,の3つの観点からその内容を解説しました。

今回はそれ以外の改正点で,重要なものの解説をします。

 

2.遺言分割前の預貯金の払戻制度の新設

(1)新設された内容

遺産分割前に発生した「相続人の生活費」「葬儀費」「相続債務の弁済」などの資金需要に対応できるようにするため,相続された預貯金債権について,共同相続人が「単独」で払戻しを受けられる制度が新設されました。

(2)何故この制度が新設されたのでしょうか

   そのきっかけは,平成28年12月19日に出された最高裁決定にあります。この決定は「預貯金債権は遺産分割の対象財産に含まれる」と判断したため,共同相続人は,遺産分割が終了するまで,預貯金の払戻しが出来なくなったからです。それまでは,預貯金は,法定相続分に応じて当然分割される(民法427条)と解されていたため,遺産分割の対象財産ではなく,遺産分割協議成立前でも自己の持分相当額を払い戻すことができていました。それがこの変更決定でできなくなり,その不都合を解消させるために,新たにこの制度が新設されたのです。

(3)新設された制度は2つあります

ア 金融機関の窓口で,預金債権の一定割合については,相続人が単独で,支払いを受けられる制度の新設がなされました(新民法909条の2)。

その場合,払い戻しができる金額の具体的な計算式は次のとおりです。

「預貯金債権額×1/3×法定相続分」となります。但し,単独で払い戻しを受けられる額は1金融機関ごとに「150万円が上限」とされています。

イ 遺産分割の審判前の保全処分の要件が緩和されました

家庭裁判所に遺産分割の調停・審判が申し立てられた際に認められる保全処分で,「仮払いの必要性」があれば,他の相続人の利益を害さない限り,「仮の取得」(仮払い)が認められるようになりました(家事事件手続法200条に3項が追加されました)。

 

3.遺留分減殺請求の金銭債権化の創設

(1)創設された内容(新民法1046条・1047条)

ア 遺留分減殺請求が行使された場合,これまでは侵害額相当割合分だけ物権的な権利変動があるとされていたものが,単に遺留分侵害額相当の金銭債権が発生することとされました(新民法1046条)。

イ その場合,金銭を直ちに準備できない受遺者等のため,裁判所は,金銭の支払に相当の期限を許与できるようにしました(新民法1047条5項)。

(2)今回の創設がなされた理由は何でしょうか

従前は,請求の対象となった目的物の所有権が侵害の割合分だけ遺留分権利者に移転し,共有状態が生ずるとされていました。しかし,それでは目的財産を受遺者等に与えたいとする遺言者の意思に反する可能性があり,加えて複雑な共有関係を回避するために,金銭債権化することにしたものです。しかし,そうすると,金銭の支払いの準備に時間がかかることもありうるために,相当の期限の許与を裁判所に求めうることにしたのです。

 

4.遺留分等の計算方法を明文化する規定の新設

(1)遺留分及び遺留分侵害額を求める計算式の明文化

ア 遺留分を求める計算式(新民法1042条第1項・1043条第1項)

「遺留分の算定財産の価額×1/2×法定相続分」で計算されます

(但し,直系尊属のみが相続人の場合は1/3となります)

イ 遺留分侵害額を求める計算式(新民法1046条第2項)

「遺留分額-特別受益額-具体的相続分額+負担する法定相続分に応じた債務額」で計算されます。

ウ 明文化の趣旨は何でしょうか

遺留分侵害請求権が金銭債権化されたことに伴い,改めてその内容の確認がなされたのです。

(2)遺留分の算定財産に算入する贈与の範囲の限定

ア 改定の内容はどのようなものでしょうか。

(新民法1044条3項の内容)

「相続人に対する贈与」は「相続開始前の10年間」にされたものに限り,その価額(婚姻若しくは養子縁組のため又は生計の資本として受けた贈与に限る)を遺留分算定の財産価額に算入することになりました。

イ 改定の理由は何でしょうか

相続人に対する贈与は,第三者に対する贈与のように1年間の制限はなく,原則として無制限に算入されるとするのが最高裁判例(平成10.3.24)でした。しかし,これでは何十年も前の贈与も含まれることになり,あまりにも不適切となるため,相続人に対する贈与についても10年以内のものに限定することとしたものです。

但し,当事者双方が遺留分権利者を害することを知っていた場合には,10年間に限定されないこととされています(新民法1044条1項)。

(3)遺留分侵害額算定での債務の取扱い

ア いかなる内容が明文化されたのでしょうか。

(新民法1047条3項の内容)

 

・遺留分侵害額の請求を受けた受遺者又は受贈者は,遺留分権利者が承継する「債務を消滅させた時」は,「意思表示」により,その限度で自らが負担する債務を消滅させることができる。

・その場合,取得した「求償権」は,消滅した債務額の限度で消滅する。

 

イ これにより,受遺者・受贈者が遺留分権利者の承継する債務を弁済や免責的債務引受などで消滅させた場合の取り扱いが規定されました。

 

5.まとめ

今回は,当初に述べた3つの観点以外の改正部分のうち,注意を要する部分の解説をしました。そのうちでも,遺留分及び遺留分侵害の算定方式に関しては,かなり細かな内容が整備されています。

条文を読んでみても必ずしもしっくりこないかもしれません。しかし,事例を想定しつつ内容を確認すれば,納得が行くと思います。頑張ってみて下さい。

 

弁護士関戸一考,弁護士関戸京子

相続法制の改正を考える(その5)

 相続法制の改正を考える(その5)

1.はじめに

これまで4回に亘って,相続法制の改正の内容の解説をしました。今回の5回目で最後です。そこで,改めてその内容を振り返ってみたいと思います。

その1では,相続法制改正の契機と,法改正の全体像を示しました。

その2では,配偶者保護のための方策を解説しました。

その3では,遺言利用促進規定と,関係者の公平を図る規定を解説しました。

その4では,預貯金の払戻制度と,遺留分制度の改正内容を解説しました。

その5では,相続の効力等に関する見直しと,遺言執行者の権限を解説します。

 

2.相続の効力等に関する見直しについて

(1)ここでの見直しの内容はどのようなものでしょうか

それは,「相続させる旨の遺言」について「対抗要件主義」を採用したことです。対抗要件主義とは,対抗要件の先後で,対立する権利の優劣を決する考え方をいいます。その内容は次のとおりです。

(新民法889条の2第1項の内容)

相続による権利の承継は,法定相続分を超える部分については登記・登録,その他対抗要件を備えなければ第三者に対抗できない,とするものです。

 

 

 

 

(2)見直しの理由を示します

  ア 従前,「相続させる旨の遺言(これを「特定財産承継遺言」と呼びます)」による権利の承継は,遺産分割や遺贈の場合と異なり,「登記等がなくとも第三者に対抗できる」とするのが,最高裁判例(平成14.6.10)でした。

しかし,それでは「遺言の有無及び内容」を全く知らない相続債権者などの第三者の利益が不当に害される恐れがあるため,特定財産承継遺言による法定相続分を超える部分を第三者に対抗するためには,遺産分割や遺贈と同様に,対抗要件が必要とされたのです。

イ ところで,承継された権利が「債権の場合」には,「債権者からの通知又は債務者の承諾」が民法上は対抗要件とされていますが,その際の特則が定められました。その内容を示します。

(新民法899条の2第2項の内容)

前項(第1項のこと)の権利が「債権である場合」,法定相続分を超えて,当該債権を承継した共同相続人が「遺言の内容」や遺産分割により債権を承継した場合には「遺産分割の内容」を,明らかにして債務者に「その承継を通知」したときは,共同相続人全員が債務者に通知したものとみなして,前項の規定を適用する。

 

 

 

 

 

 

 

(3)債権の特則が定められた理由を明らかにします

本来従前の規定では「債権者からの通知」は,共同相続人全員でする必要がありました。ところが,共同相続人間でもめているときには,必ずしも全員ですることができないこともあるため,「受益相続人が単独で通知」できるようにしたものです。

しかし,その際,虚偽の通知によることを防止するため,通知の際に「遺言の内容」や「遺産分割の内容」を「明らかにする」ことが要求されたものです。

但し,「遺言の内容」や「遺産分割の内容」を債務者ではなく第三者に対抗するためには,確定日付のある証書(通常は内容証明郵便を利用することが多い)によることが必要となります(これは民法上の原則です)。

これにより,相続債権者や被相続人の債務者は,受益相続人が対抗要件を具備するまでは,法定相続分を前提として権利行使・義務履行をすれば足りるということになります。

 

3.遺言執行者の権限の明確化

遺言執行者が選任された場合の権限は,以下のとおりです。

(1)遺言執行者の任務開始に伴う通知内容(新民法1007条2項)

遺言執行者は,任務開始に伴い,遅滞なく「遺言内容」を相続人に通知することとされています。

(2)遺言執行者の権利義務(新民法1012条)

ア 遺言執行者の権限は,「遺言の内容を実現するために必要な行為をする権利義務」と明記されました(同条1項)。

イ 「遺贈の履行」は,遺言執行者のみが行うことが確認されました(同条2項)。

(3)遺言執行の妨害行為の禁止規定(新民法1013条1項・2項・3項)

ア 相続人による財産処分などの遺言執行に対する妨害行為は禁止され(同条1項),違反してなされた行為は無効とされつつも(同条2項),善意の第三者には対抗できないとされました(同条2項但書)。

イ それに対し,相続人の債権者等の権利行使(例えば差押えなど)は,妨害行為として無効とはならず(同条3項),対抗問題とされています。

(4)特定財産に関する遺言の執行(新民法1014条2項・3項)

ア 特定財産承継遺言があったときは,遺言執行者は新民法899条の2第1項(法定相続分を超える部分の対抗要件を定めた規定)に必要な行為をすることができると定められています(同条2項)。

イ それが預貯金債権である場合には,「対抗要件の具備」の外「払い戻し請求」や「解約の申入れ」もできる,とされました(但し,解約申し入れは,その全部が当該遺言の対象となっている時に限られます)。

(5)遺言執行者の行為の効果(新民法1015条)

遺言執行者が「遺言執行者であることを示してした行為」は相続人に対し,「直接その効力が生ずる」とされました。これにより,不動産登記実務上も遺言執行者が単独で「相続による権利の移転登記申請」ができるようになりました。

(6)遺言執行者の復任権(新民法1016条)

ア 遺言執行者は原則として,自己の責任で第三者にその任務を行わせることができます(同条1項)。

イ しかし,やむを得ない事由によって第三者に行わせるときには,相続人に対し,その選任監督についてのみ責任を負うこととされました(同条第2項)。

以上の内容が,遺言執行者の権限について明確化された相続法改正の内容です。

 

4.まとめにかえて

5回にわたって相続法制の改正について主だった点の解説をしました。

今回の相続法制の改正は,相続法の全般に及ぶもので,少子高齢化社会の到来と共に多くの国民に直接かかわる内容がかなり含まれています。相続問題にかかわることが多い弁護士や税理士がその内容を正確に理解しておかないと,思わぬ過誤を引き起こさないとも限りません。

今回の改正部分は,大半が施行日がすでに到来しています。しかし,配偶者居住権(2020年4月1日施行)や遺言書の保管制度(2020年7月10日施行)などは,施行日は未到来ですので注意して下さい。

実務家の皆様には,改正の基本的な内容を頭に入れながら,直接改正条文や法文の内容を確認していただきたいと願っております。

以上をもって「相続法制の改正を考える」を終わります。

 

弁護士関戸一考,弁護士関戸京子

カナディアンロッキーの旅(その1)

カナディアンロッキーの旅(その1)

1.カナディアンロッキーの山歩きの旅の特徴

私達夫婦は,最近の10年は専らヨーロッパアルプス,なかでもシャモニーを起点にしたアルプスの山歩き・山登りが中心です。でもその前の約10年間は,カナディアンロッキーでの山歩きの旅が中心でした。それ以外にも,この間世界各地の山々を歩いています。今回は,その中でカナディアンロッキーでの山歩きの旅の話を紹介しましょう。

私達夫婦は,専ら海外での山歩き・山登りが中心で,日本の山で登っためぼしい山はせいぜい大山や六甲山などの西日本の山が中心でした。今後はもう少し日本の山も歩こうと思います。

そもそも私達が海外旅行に行くようになったのは,私が10年程勤めた事務所を退所して吹田市江坂の地に自分の事務所を持ち,誰に気兼ねすることもなく自由に海外にも行けるようになってからです。丁度その頃,西名阪超低周波の公害訴訟が和解で終了したところで,弁護団員とその家族でフィジー旅行をしたのが最初です。以後毎年のように外国へ行くようになりました。ある時スイスのツェルマットで泊まり,朝一番の登山電車で終点のゴルナグラードまで行って,そこからマッターホーンの麓を歩いたのがきっかけで,私達は山歩きに目ざめました。それからと言うものは,山歩きのできる海外の目ぼしい場所を探して出かけるようになりました。その1つにカナディアンロッキーがあったのです。

私達が経験した山歩きの中では,ヨーロッパアルプスとカナディアンロッキーが双璧でした。山々の美しさではヨーロッパアルプスが最高で,その美しさは圧倒的です。それに対し自然の雄大さではカナディアンロッキーが群を抜いています。例えて言えば,富士山が何百個も連なっている様な感覚です。それ位雄大な山脈がロッキー山脈です。ですから旅行のスタイルもヨーロッパアルプスでは1箇所の街(例えばシャモニーやツェルマット)に滞在してアルプスの山々を歩くのに対し,カナディアンロッキーでは,車で移動しながら各地を探索して歩くのが適していたのです。そこで私達のそんな広大なカナディアンロッキーの旅を御紹介しましょう。

 

2.カナディアンロッキーの旅の仕方

まず最初に,カナディアンロッキーとはどの辺りをさすのかを簡単に説明します。

ロッキー山脈は北米大陸のメキシコ,アメリカ,カナダの西側を南北に縦断する山脈で,そのうちの北に位置するカナダ国内の約1450㎞位をさすと言われています。これは日本の本州の長さに匹敵するものです。この広大なカナディアンロッキーを旅する際,私達が参考にしたのは,「カナディアンロッキーハイキング案内」(益田幸郎・益田晴子著・山と渓谷社出版)という本です。ここには多くのハイキングコースが載っており,少し古くなりましたが現在でも十分利用できるものと思います。

さて,私達は初期の海外旅行を除いて,原則として,既存の旅行会社のツアーには参加せず,自分達で飛行機と宿を予約して旅行をすることにしていました。それは旅行会社のツアーを利用するとかなり割高となることを知っていたからです。例えば当時,レイクルイーズの有名な最高級ホテルシャトーレイクルイーズでの宿泊費が現地で予約したら二人で1泊209ドルで済んだのが,旅行会社のツアーでは同じホテルが1人で2倍以上の約5万円の費用がかかっていることを知りました。ですから実際には,かかった費用はトータルで半額とはいいませんが3分の2位で十分同じところを旅することができたのです。

それではもう少し具体的に旅行のエッセンスをお話します。

(1)まず,移動手段からお話します

関西空港からバンクーバーを経由してカルガリーまで飛行機で行きます。飛行時間はバンクーバーまで8時間半,さらにカルガリーまでは約1時間と少しかかります。そして,着いたカルガリーの空港でレンタカーを借りました。(勿論予め日本で予約をしておきます。)カナダのレンタカー会社(ハーツかエイビスです)には,コンパクトカー(1500~2000ccクラス)に日本車が置いてあり,できる限りこれを借りるようにしました。それは日本車を借りていて大変助かったことがあるからです。カナナキス地方の山奥で車がパンクをしてしまった時,乗っていたのがトヨタ車だったため,日本でタイヤ交換の経験があり,タイヤの取り替えに苦労せず無事予定通りに目的地に着くことができました。(もし外国車だったら取扱い説明書を読むことからしなければならず,大変です。)広大なカナディアンロッキーは,車で各地を移動しないと公共交通機関が少ないので大変不便な旅となりかねません。私はカルガリーで車を借りて,バンフ・レイクルイーズ・ジャスパーを経てエドモントンの空港まで約800㎞位移動して車を返却することが多くありました。それ以外にもバンクーバーの空港で車を借りて,トランスカナダハイウェイ1号線を1000㎞以上移動してカナディアンロッキーに入り,そして帰りは同じ道をバンクーバーまで戻ったこともあります。このトランスカナダハイウェイ1号線は,バンクーバーからカナディアンロッキーを横断しており,カナダの西と東を結ぶ主要道路となっています。この道路でキャンピングカーをつないで走る車を多く見かけました。カナディアンロッキー内にはいたるところにキャンピングカーを止めるエリアがあり,カナダ人はキャンピングカーで旅行を楽しむ人が多いようです。

(2)次に宿をどのように決めたのかお話をします

カナディアンロッキー内での中心的観光地(バンフ,レイクルイーズ,ジャスパー)では,夏のシーズンは観光客が多いため宿は事前の予約が必要となります。でもそれ以外の場所をレンタカーで移動する場合にはあまり心配はいりませんでした。それはトランスカナダハイウェイ沿いにはモーテルが結構多く有り,“vacancy”の表示があれば比較的安く(80ドル位)泊まれたからです。私達は初日にカルガリー郊外のモーテルで泊まったり,思いきってバンフの手前20㎞のキャンモアまで行きそこで宿を探して泊まりました。必要に応じて泊まった宿から次の宿泊予定地の宿を予約すれば,ほとんどのところで泊まれました。但し,一度大失敗をしたことがあります。レイクルイーズからジャスパーへ向かっている最中,宿を見つけて泊まろうとしましたがタッチの差でその宿をとりそこねてしまい,結局ジャスパーを過ぎて100㎞以上の先の小さな町まで宿を求めていくはめになってしまったのです。この時はうす汚い宿で一夜をあかし,翌日ジャスパーまで戻りました。

この時の教訓として,観光地の周辺では昼間の3時位までに泊まる宿を決めないと空いている宿がなくなってしまうこともあるので,余裕をもって早めに宿を決める必要があるということです。(特にジャスパー周辺では要注意です。)

ところで,カナディアンロッキーには,数多くのナショナルパークがあり,そこには必ず「Info.」の表示のある観光案内所があります。そこで国立公園内の山歩きの案内地図をもらったりする外,宿泊場所の情報を載せてあるアコモデーションガイドの冊子がありますので,それをもらって次の宿を物色することが多かったと思います。でも車で移動する場合,基本的には観光地から少し離れたところに宿をとる覚悟をしておけば,予約がない場合でもあまり心配することはありませんでした。このアコモデーションガイドの冊子は翌年に,宿を予約する時にも大変役に立ちました。

(3)最後に買い物(食べ物)の話をしておきましょう

私達は海外旅行をする際,原則として自炊をすることにしていました。日本から旅行用の電気ポット(鍋)を必ず持参し,宿でお湯をわかしインスタントラーメンを作ったり,味噌汁を作ります(但し,国によって三つ股コンセントを予め用意しておく必要がありますので気を付けて下さい)。カルガリー,バンフ,レイクルイーズ,ジャスパーには,日本食品を備えてあるスーパーがあり,ここで果物,インスタントラーメンやパン,ハム,サラダ等を買い,山歩き用の昼食を準備したのです。ですから,カルガリーでレンタカーを借りたら,すぐ市内でスーパーを探し,以後の食料を調達することにしていました。そして移動する度に次の宿を確保すると同時に食料を買い足して旅行を続けたのです。レンタカーの場合,このように臨機応変に対応できるから都合が良かったのです。

結局宿に泊まっても私達は買い込んだ食料で自炊をしましたから費用はかなり安くおさえることができました。おそらく外食の半分以下でしょう。カナディアンロッキーで高級ホテルに泊まり,豪華な食事をすることが目的ではありませんでしたから,これで私達は十分満足できたのです。それでも,時々日本食が恋しくなりましたが,ジャスパーで日本食を出してくれる店や食べ物店を見つけましたので,これで少し安心しました。

ここで,買い物の件をお話しましょう。中心的観光地には,みやげ物店や山の用品をそろえた店が多くあります。その中で妻の京子は,カルガリーでマウンテンコープを見つけ,そこの会員となり,必要に応じ山用品を調達しました。日本で買うより安くて機能的なものが多くあったからです。そのため京子の山用品の大半は外国で購入したもので占められています。しかしその場合カードで買い物をするため,どうしても高い物を購入してしまいがちです。ところが,同じ物が日本の店ではさらに高額になっており,驚くことがよくありました。山用品などは現地で調達する方が素敵なものが多いようです。

以上述べたことを念頭に,カナディアンロッキーの旅の具体的内容に踏み込んでお話したいと思います。但し,ここで述べたことに頭を使うのは大変だと思ったら,旅行会社のツアーに申し込めば,移動手段,宿,食事などの心配はしなくとも良いでしょう。でもその分確実に割高となることは間違いありませんが・・・。最近は現地での日本人向けの山歩きのツアーもあるようです。これをうまく利用すれば,比較的気軽に山歩きが楽しめるのかもしれません。

カナディアンロッキーの旅(その2)

カナディアンロッキーの旅(その2) 

3.目的地の選定をする

広いカナディアンロッキーには,おそらく数百以上のトレイルがあり,見どころも一杯あると思います。その中から限られた期間内で,散策することができる素敵な場所を選定することは,なかなか大変です。

そこで,私達がどうやって見どころを選定して歩き回ったのかをお話しします。

私達がカナディアンロッキーを歩いた時期は,8月の夏休みとなる期間の約2週間でした。この時期は,裁判所も更替で休みとなり,ほとんど裁判の期日が入らないから山歩きには好都合です。2週間と言っても往復は1泊ずつ飛行機内泊となるから,概ね12日間がロッキー内で移動できる期間となります。

そこで,その間を前半と後半に分けて,広いカナディアンロッキーの中でメインとなる場所を決めて動きました。その時基点にしたのがカナディアンロッキーのナショナルパークの中にある山小屋(ロッジ)です。この方法はいろいろな山小屋(ロッジ)に泊まりながら付近の雄大な自然を楽しむという方法です。山小屋と言っても30人以上も泊まれるものもあり,小さな山岳ホテルのような印象を持ちました。これらの山小屋(ロッジ)にはヘリコプターで入山したり,馬で入山したり,ハイキング(かなり長距離となります)で入山したりします。このような楽しみ方をロッジンクと言うようです。

私達が参考にした「カナディアンロッキーハイキング案内」の中に,いろいろなロッジの案内があり,事前に予約をして行くことになります。概ね1週間単位で予定が組んであり,3泊4日または2泊3日でローテーションとなっています。勿論山小屋には定員制限があるので,同じ機会に入山したメンバーと一緒に付近の自然をゆったりと楽しむことができるのです。私達は1回の旅行で多い時には前半と後半に2箇所のロッジに泊まることもありました。でも大体は前半に1箇所のロッジに泊まり,その間隙をぬってカナディアンロッキーを車で移動しながら,ハイキングをしつつ山や湖を回るという方法をとりました。

私達がメインとして泊まった山小屋(ロッジ)は,①パーセルロッジ,②アシニボインロッジ,③バカブーロッジ,④ミスタヤロッジ,⑤フォートレストレイクロッジ,⑥シャドウレイクロッジ,⑦オールソンズロッジ,⑧ディクソンズチャーレーなどです。このうち①から⑤はヘリで,⑦と⑧は馬に乗って,⑥はハイキングで4時間から5時間もかけて入山するのです。ヘリで入山する場合は,近いところで約10分位,遠いところで40分位のフライトですが,ヘリからの景色が素晴らしく印象的でした。でもヘリを使うと滞在費が少々高くなるのが玉に疵です。馬での入山は5時間・6時間かけて目的地へ行きますが,途中でお尻が痛くなり,足がしびれてしまいます。でも日本ではなかなか味わえない乗馬体験でした。

そこで,各々の山小屋での出来事で印象深かったことをお話しします。

 

4.印象深いロッジでの出来事を語る

(1)トンキンバリーの2つのロッジ

私達が訪れたロッジの中で一番印象に残ったところは,ジャスパーナショナルパーク内にあるトンキン・バリー(Tonguin Valley)のオルソンズロッジとディクソンズ・シャレーです。この2つのロッジはいずれもアメジストレイク(Amethyst Lake)の東岸と北岸にあります。この湖はニジマス釣りで有名なところで,馬に乗って(これをホースバックライディングといいます)5時間から6時間かけて入山します。この2つのロッジはいずれもニジマス釣りとホースバックライディングを満喫させてくれることで人気があるようです。

ここでカナディアンロッキーでのホースバックライディングの説明を少ししておきます。私達はトンキンバリーのロッジで長時間乗馬をしながら入山をすることになっているロッジを案内文で知りました。そこで,乗馬の練習のため,私の事務所の近くの緑地公園の乗馬クラブに行って練習をしました。全く乗馬の経験がなかったからです。ここで教わったことは,馬の背中に乗りながら馬の歩行に併せて足で踏んばり,上下動をしてお尻を浮かせて乗る方法です。そうしないと歩くたび馬の背骨がお尻にあたり痛いからです。この練習を日本の乗馬クラブで3~4回してから,カナディアンロッキーのトンキンバリーへの登山口にある小さな牧場に車で行きました。ところが,そこで乗馬で移動する際教えてくれたことは,右に曲がる時には右手で,左に曲がる時は左手で手綱を引く,そして止まる時は両手で手綱を引くという,ごく簡単な説明をしただけです。そしてすぐに馬に乗って歩き出しました。日本で練習したように馬の歩行に併せてお尻を持ち上げなくとも痛くありません。それはカナダの馬は背中が広く,巾の広いサドルのため(ウェスタンサドルというらしいです)馬の背骨で下からつき上げられることがほとんどなかったからです(日本の馬は幅の狭いイングリッシュサドルがついていますから大変です)。でも5時間も6時間も馬に乗るとさすがにお尻や足がしびれてしまいます。でも必死に頑張って馬に乗って20km以上も山奥へ進み,目的地のアメジストレイクの麓のロッジにたどりついたのです。

この経験は衝撃的でした。これですっかり乗馬に慣れて好きになりました。馬は隊列に遅れそうになると軽くギャロップをしてくれます。残念なことに馬が全力で走り出すことはありませんでしたが,馬でカナディアンロッキーのメドウ(草原)の中を歩き回る楽しさを体験できました。話は変わりますが,最近韓国の時代劇で馬に乗り,全力疾走するシーンを時々見ます。あれは,かなり危険なことで,俳優さんが落馬して怪我をすることがあるそうです。でも一度位は馬で全力疾走してみたいと思ったものです。

ここのロッジでは,ウォーキングの他にフィッシングをするか,ホースバックライディングをすることがメインとなります。私達は当然ホースバックライディングを希望しました。ところが,その途中でカナディアンロッキーにいるグリズリー(灰色熊)に出会いました。グリズリーは立ち上がると2m近くにもなり非常に危険な熊です。馬と同じ位のスピードで走りますので,追いかけられたら逃げられません。

でも,この時は我々が馬で隊列を組んでいたので,我々に向かってくることはありませんでした。そのため,ビデオカメラでグリズリーを撮影することができました。その日の夕方,ナショナルパークを警備しているパークレンジャーがヘリで「グリズリーが出たから気をつけるように」と呼びかけていました。グリズリーにおそわれたら大変なことになるからです。ここでは”You are in Bear Country”と言われ,ナショナルパーク内に時々熊に襲われて死亡した人の石碑が残っています。

夕食には,その日に釣れたニジマスが焼かれていました。夜には釣りに来たメンバーの部屋でパーティーが始まります。私は日本の歌を歌いながら楽しくすごしました。ところが帰る時になり,釣りをしに来た親子連れが私のところへ来て,「来年もこの時期にアメジストレイクに来るから,お前も来ないか」と言うのです。私は笑って返事をせず,おみやげ用に日本から持って来ていた箸をあげ,お礼を言って別れました。この親子連れは,毎年ここに来てニジマス釣りをしているようでした。

トンキンバリーの2つのロッジ(合計2回行っています)でのホースバックライディングは,私達にカナディアンロッキーでの新しい楽しみ方を教えてくれたのでした。

(2)マウントアシニボインロッジでの出会い

次に,私達がすばらしい出会いを経験したのが,バンフナショナルパークから進み,隣のマウントアシニボイン(Mount Assiniboine)州立公園内にあるマウントアシニボインロッジでのことです。マウントアシニボイン(3618m)が間近に見えるこのロッジは,1928年に建てられたという伝統ある山小屋です。すぐ前にレイクメイゴック(Lake Magog)があり,景色の素晴らしいところです。

ここへの入山方法はキャンモア(Canmore)から車で42km程入ったヘリポートからヘリで(約10分です)入山するか,そこから約26.7kmを歩いて入山するかの方法です。私達は,往きはヘリで,帰りは歩いて下山する方法を選びました。26.7km歩くのはかなり大変でしたが,同時に下山する女性達と一緒に歩いたのです。(カナダの女性は背が高く足が早くてついていくのは大変でした)

ここのロッジで素敵な出会いがありました。私達がロッジの周りを散歩していると,スケッチブックを持って回りの風景を写生する熟年夫婦を見つけました。京子はそれを見て”Your hobby is good”と声をかけたのです。すると,男性が”Not hobby, professional”と答えました。彼はジャスパーのみやげ物店などで絵葉書きなどの絵を描いている画家だったのです。リタイアする前は地元の新聞社で風刺画などを描いていたということでした。名前をヤーデリーショーンズ(略してヤーデルといいます)といい,エドモントンに住んでいるということで,足の悪い奥さんのメアリーを連れてこの辺りの風景の写生をするために来ていたのです。

私達はすっかり仲良くなり,いろいろ話をしているとヤーデルが「私達の似顔絵を描いてやろう」と言い出し,私達の写真を撮り,似顔絵を日本へ送ってくれることになりました。ヤーデルがこの時描いて送ってくれた似顔絵は,私の事務所に今も大切にかざってあります。ほんとうはマウントアシニボインには登っていないのに登ったように描いてありますので,事務所に来た時に皆様には是非お見せしたいと思います。それ以外にもヤーデルの絵が何枚か飾ってあります。

この時の出会いが縁で,私達はカナディアンロッキーに来た時には帰りにカルガリーではなくエドモントンの空港から帰ることにして,前日には,ヤーデルの家へ遊びに行く予定を組み,合計4回程行きました。日本からのお土産に,京子の父親が収集していた日本の掛軸を持参すると,画家のヤーデルは大変喜んでくれました。夫婦には6人の子供がおり,独立して孫が10数人もいるとのことで,メアリーは「この家族全員が私の宝物だ」と言って写真を見せて自慢をしていました。その後しばらくは,クリスマスカードを交換していましたが,メアリーは亡くなり,ヤーデルも引越し,連絡がとれなくなってしまいました。でもカナディアンロッキーの旅で私達の忘れられない思い出の1つとなっています。

カナディアンロッキーの旅(その3)

カナディアンロッキーの旅(その3)

5.カナディアンロッキーでの印象深い出来事を語る

(1)ホットスプリングスをめぐる

カナディアンロッキーの旅ではいろんな経験をしています。その中で,少し変わった出来事は,山歩きの後疲れた体を癒すのに都合の良いホットスプリングス(温泉)が各地にあり,山歩きの後そこに入浴しに行ったということです。

その中でも,町の名前が温泉そのものを表すラジウム・ホットスプリングス(Radium Hot Springs) が有名です。ゴールデンから,トランスカナダハイウェイ95号線を南に下り,93号線に合流したところにラジウム・ホットスプリングスがあります。山間にある,大きな温泉プールで,日本のひなびた温泉とは違い,水着を着て入り,泳ぐこともできるくらい大きな温泉プールです。ここで,入浴していた時,カリブーロッジのガイドスタッフで,我々を山歩きへと案内してくれたウェンディに会い,彼女も疲れた体を癒しに来ていました。山歩きで疲れた時にはホットスプリングスでの入浴は最高です。

それ以外にも,私達はジャスパーから東のエドモントンの方向に車で1時間位走ったところに,ミエッテ・ホットスプリングス(Miette Hot Springs) があり,ここの温泉プールにも入っています。雄大な自然の中にあるホットスプリングスは,ホテルでの風呂やプールとは違って,青空の下で開放感のある憩いの場となっています。レンタカーで移動していたため,各地のホットスプリングスめぐりが可能となるのです。

他にはバンフにあるホットスプリングス(Upper Hot Springsといいます)にも入っています。いずれもナショナルパークが管理・運営するもので安い入湯料で入ることができます。

(2)カナディアンロッキーの湖は美しい宝石のよう

カナディアンロッキーを旅する中で,色々な山や湖をめぐり,その周辺を歩いています。そこで感じたのは,湖の色の美しさということです。エメラルドグリーンの美しさを誇るエメラルドレイクや,透明で澄んだ色のボーレイク(ここでは湖の周辺をホースバックライディングで回りました)。それ以外にも乳白色がかったブルーの湖が至る所にあり,本当にきれいな色の湖が多いのです。しかもその色が場所により少しずつ違います。何が原因でこのような色になるのかわかりません。氷河や雪解け水が流れ込むと乳白色となっているのは,ヨーロッパアルプスでも体験していますが,カナディアンロッキーの湖の色はそこにブルーの色が混入しており,きれいな宝石のような色をしているのです。ところで透明で澄んだ色のボーレイクで,朝日があたる早朝には,色が乳白色変わって見えるのを発見しました。不思議な現象です。

(3)いろいろなアクティビティも経験しました

フォートレストレイクロッジは,湖のほとりにありましたので,ここでカヤッキングを体験しました。乗ったのは,二人乗りのカヤックでしたが,乗り込んでから足でペダルのようなものを踏み込みながらカヤックの後部についたヒレのようなもので方向を調整しながら進むようになっています。湖の中をカヤックでゆっくりと進んで対岸へ行き,そこから静寂な森の中を散策したのでした。

バカブーロッジでは,近くの小さな湖で参加者間のカヌー競争をしました。これも二人1組でチームを作り,右側用と左側用のオールを2人で分担して漕ぎ,早さを競うのです。2人で左右のバランスを取らないと素早くまっすぐに進みません。京子はアメリカ人の女性と組み,バランス良く進み,相手チームを圧倒しました。これは,ロッジの宿泊者同士が仲良くなる工夫でしょうか。終わった後は,キャンプファイヤーで交流を深めたのです。

カナディアンロッキーの中を流れるキッキングホースリバーでは,ラフティングを体験しています。大きなゴムボートに,ヘルメットとライフジャケットを着て,数名で乗り込み,急流を下ります。川の水は雪解け水ですから非常に冷たいですが,夏場でしたからあまり気にならず急流を下ることができました。でも途中,滝壺のようなところで,ゴムボートから降りて,近くの岩の上から川の中心に向かって飛び込むように言われました。私は挑戦しませんでしたが,京子はそれにチャレンジしたところ,「水の中は心臓が凍るかと思う程冷たかった」とのことです。キッキングホースリバーとは「暴れ馬の川」という意味でしょうから,何となく急流を下るラフティングの様子が想像できますネ。

バカブーロッジでは,ヘリハイクを体験しました。これはロッジの近くの山の頂までヘリでいき,そこからハイキングをするものです。下から歩いて山頂に行くのと違い,いきなり山頂まで連れて行ってもらい,山の尾根を歩くのですから,体力はあまりいりません。そこで,高山植物や小動物を探しながら,ゆっくり歩くのも楽しいものでした。その最中にモスキャンピオン(Moss Campion)という岩にへばりついて生えているピンク色の小さな植物を知りました。いろいろな高山植物の写真を撮りながら歩く熟年夫婦もいて楽しいものでした。

(4)小熊のベリーピッキングに驚く

フォートレストレイクロッジでは,驚きの体験をしました。私達が泊まっていた小さなテント風のロッジでのことです。明け方に外でごそごそと音がしました。風が吹いているのかと思っていたら,朝起きてみると外に置いてあった京子の登山靴の底がかみ切られていたのです。犯人は子熊でした。近くにはたくさんベリーが生えており,子熊がそれを食べに来ていたのです。やむを得ず京子は底の破れた靴をテープで補強して旅を続けたのです。カナディアンロッキーにはいろんなベリー(いちご)がはえており,ベリーピッキングを楽しむと聞いたことがありました。

 

6.最後にマウントロブソンでのキャンプ巡りをお話しします

(1)初めてのキャンプを体験する

私達はカナディアンロッキーでは主に宿に泊まりながらハイキングやトレッキング中心の旅をしていました。でもカナディアンロッキーで唯一キャンプを経験したことがあります。それがマウントロブソン(Mount Robson)のキャンプグランドでのキャンプです。

マウントロブソンは,カナディアンロッキー山脈の中では最高峰の山(3954m)で,1913年に初登頂されて以来,人気のある山となっています。

マウントロブソンへの登頂を目指すキャンプグランドまで行くには,登山口から歩くより方法はなく,途中,宿泊施設がないため,通常はテントの用意が必要となります。私達はテントを準備していなかったので,ロブソンアドベンチャーセンターに行き,そこからマウントロブソンが正面に見えるバークレイク(Berg Lake) のキャンプグラウンドまでヘリで連れて行ってもらうことを選択しました(勿論事前に予約しておく必要があります)。

ところが,指定された朝8時にアドベンチャーセンターに行ってみると誰もおりません。おかしいと思って中を覗いてみると,京子が「まだ7時だ」と叫びました。マウントロブソンはブリティッシュコロンビア(British Columnia)州にあり,私達がいた隣のアルバータ(Alberta)州より1時間遅いことに気が付いたのです。アルバータ州はこの時期,山時間(マウンティンタイム)で通常より1時間早いのです。しばらくして,7時半頃にガイドのBrentがやってきました。彼は,「我々が時間を間違えているかもしれない」と少し早めに来てくれました。

マウントロブソンは,ブリティッシュコロンビア州のマウントロブソン州立公園内にあり,東側はアルバータ州のジャスパーナショナルパークに隣接しています。通常バークレイクのキャンプ場へ行くには,ジャスパーから車で西へ約1時間と少しかけて登山口に行き,そこで車を降りて,山道を21キロ歩いて,目的地へ行きます。そのため往復するにはテントの準備が必要となるのです。

我々は,マウントロブソンのキャンプグランドでの滞在が旅の目的ではなかったため,キャンプ用品の準備はしていませんでした。そのため,アドベンチャーセンターのBrentにキャンプ用具の準備を全て委ねて,ヘリでキャンプグランドまで飛んだのです。

そこでテントを張り泊まることにしました。ここはバークレイクとマウントロブソンが正面に見える素晴らしいところでした。カナディアンロッキーの旅で初めてのキャンプの体験でした。

(2)マウントロブソン山頂がめずらしく晴れ渡る

翌朝6時半に起きて,マウントロブソンを見上げると,頂上付近にある雲が跡切れ,徐々に晴れてきました。しばらくしてBrentはUnbelievableを連発します。この辺は雨が多い地域で,なかなかマウントロブソンの頂上は晴れることがないらしく,ところがこの日は珍しく9時前頃には完全に頂上が晴れて山の全貌が見えたのです。

この日の午前中私達は,ロブソングレーシャーへ行き,氷河の上を歩きました。氷河の上は滑りやすくクレパスに落ちたら大変です。でも少しずつ氷河が迫り上がり,解けて小さくなっているのがわかりました。現在と昔の比較のため,数10年前の氷河の位置が表示されていたからです。地球の温暖化の影響が表れているのでしょう。

氷河から戻ってみると,昼食用のバーガーをカラスに盗まれてしまったことがわかりました。Brentは謝りましたが,我々は正直言ってテントでの食事には期待していなかったので気になりませんでした。

そして,その後,次のキャンプ地のホワイトホーンキャンプグランドに向かうことにしました。

(3)日本人の登山グループと出会う

その途中で,2人の日本人連れに出会いました。彼らのパーティーが「マウントロブソンで一番難しいと言われている南の壁面からの登頂を目指している」とのことで,相模原の山岳会のメンバーでした。しかし,「登頂隊と連絡がとれず心配だ」と言いつつ,「もし予定の時間を過ぎても戻らなければ,自動的に救援隊が出ることになっている」と説明してくれました。この日は登頂隊が山頂の直下で「ビバーグ」しているはずだとのことでした。

2日目のキャンプも何とか乗り切れました。我々は次の休憩地のキニーレイクへ向かって山を下りました。するとそこで前日の相模原の山岳会のメンバーが待機しており,登頂隊からの連絡を待っていました。その時交信が入り,「昨日の朝9時15分頃に登頂に成功した」との連絡です。思わず歓声が上がりました。メンバーは女性を含む6人で,3人が登頂を目指していたとのこと,丁度BrentがUnbelievableを連発したあの直後に登頂に成功したようです。2度目のチャレンジとのことでした。

さて,このキャンプ巡りで知らされたことは,自然の厳しさと偉大さです。これでもかこれでもかと自然は人間に迫ってきます。その中で人間は自然と共に生きていることを知らされた日々でした。

京子はそれ以来,「自分もマウントロブソンにチャレンジしてみたい」と言い出しており,「機会があれば」と考えているようです。

 

7.結びにかえて

カナディアンロッキーの旅は,一言でいえば,自然の中で生きている自分を知る旅でした。あまりにも雄大な自然に圧倒されながらも,そこにぽつんと存在している自分を感じながらの旅です。でもこの時にはまだ山登りにチャレンジするというより,「自然とどのようにかかわるのか」ということが目的の旅だったと思います。

その後はヨーロッパアルプスの山歩きを体験する中で,徐々に山登りの旅へと変化してゆきました。

私たちはカナディアンロッキーの雄大な自然に触れることができ,感謝したいと思っています。